Autogenesis diary

日々思う事やイラスト制作日記。

ゆっくりとした時間。そして世界最高峰と言われるコーヒーと出会う。

休日はかなりの割合でお昼くらいまで寝ていたりします。ですが今日は用事があり平日と同じ位の時間に起床。起きた時は本当に眠い・・・。そして目がなかなか開かない・・・でも朝起きて動き始めると結構体もまともになってくる。正直、昼まで寝ているよりも体の調子が良くなってきたりするんですよね。やはりサイクルってあるんだなと思います。

そして珍しく休日の朝から渋谷へ行くことに。目的地にも無事に着き、時間があったので以前から気になっていたカフェFuglen Tokyoへ。

ここのカフェ、本店はノルウェーオスロにあるらしく、世界最高峰のコーヒーとして有名らしいのです。そして海外初出店としての第2号店がこのFuglen Tokyo。

世界最高峰のコーヒーと言われたら、そりゃ気になる・・・。今日の目的地も近いということでいざ!ということになった訳です。

そして無事店に着きコーヒーを注文。はじめてのお店だと仕組みがわからないので結構ドキドキしたりします。かなりの小心者です・・・。

そしてコーヒーを飲んで思ったこと。

やはり世界には、まだまだ自分の知らないものは多いんだなということです。今まで僕が飲んできたコーヒーとは全然違う・・・。それは普段から僕がいろいろなカフェでコーヒーを飲んできた訳ではないので尚更ということもあるのでしょうが、とにかく味、風味が全く違う。酸味があるコーヒーとはこういうものなのか・・・と。コーヒーを飲んではじめての感覚でした。とても自然の香りと味わいがあり、美味しかったです。

そして朝から、ゆっくりとした落ち着いた時間を過ごしている外国の方々を見ていると自分も気分が落ち着いてきます。普段考えていること、やってみたいことを気負わずに想像してみる。こういった時間はやはり大切な時間だと感じました。

ということで、珍しくカフェからブログを更新しつつ、娘の帰りを待つことにします。読んで頂きありがとうございました。

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食卓でご飯を食べるということ。

先月の話になりますが僕の生まれ育った実家が引っ越しをするということで、いろいろと手伝ったり、放置していた自分の物を持ってかえったりとバタバタしておりました。

 

片付けをしていると昔のものがどんどんと湧き出てくる。こんなにあるものなのかと、正直途方に暮れそうになりました・・・。30年以上という歳月はやはり、なかなかなものです・・・。

 

そうこうしながら、母、妹、僕の3人で家の片付けをしていたのですが、どうしても運びたいものがでてきてしまい、急遽父親が引っ越しに参加することになりました。急遽・・・?父親・・・?なんで・・・?と思うかもしれませんが、僕はほぼ母子家庭で育ってきました。自営業ということもあり、事務所兼アトリエのある父は家に帰ってくるということが結構レアだったんですね。仲が悪いということはなかったし、僕は父親の影響をかなり受けています。途中からは友達感覚みたいな感じですね。なので珍しく父が家に帰ってくるということになるとその日は外食という感じになっていました。今は千葉の海の近くにアトリエがあり、僕のサーフボードもそこに置かせてもらっています。なので今回も急遽父親の参加というかたちになった訳です。

 

父親は家に着くと、「取り敢えずなんか食べに行こう!」と言いました。今まで基本家族が揃う時は外食でしたから、いつものノリだったんですね。ですが、引っ越しの前日ということもあり家は凄い状態に・・・。とてもじゃないけど外に食べに行く時間と体力はありませんでした。そして母も結構機嫌が悪い。ま・・・今ではちょっと微妙な関係になってしまったので、当たり前と言えば当たり前ですが・・・。

 

ということで、母をなだめつつ、それでも何か食べない訳にはいかないのでお弁当を買ってきて食卓でご飯を食べるということになりました。

 

食卓で4人揃ってご飯を食べる。考えてみれば15年ぶり位になるのではないでしょうか・・・。自分が育った家の最後の日に、家族揃って食卓でご飯を食べる。とても不思議な感覚でした。思えばあの時、もっとちゃんとみんなで食卓でご飯を食べていたなら、もう少し家族として繋がっていられたのかな・・・と思ったりもします。食卓のある部屋はその家の象徴のようなものなのかもしれません。

 

僕には今自分の家族があり、揃ってご飯を食べれるのは休日くらいです。正直それが当たり前位になっていました。ですが、家族揃って食卓でご飯を食べる時間って、きっとかけがえのない時間なんですよね。もっと大切にしていこうと思います。

 

ということで、実家から持って帰ってきたエゴン・シーレの画集と絵の具箱を横に、また制作に戻ろうと思います。

 

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人工知能に相対するものがアートの世界だと思う。

またまた今日は最近はまっている人工知能について。

 

Googleが開発した人工知能が世界トップ級のプロ棋士を破ったということらしいですね。なんか凄いところまできました・・・人工知能・・・。もう先を予測していくという点では人間は人工知能に勝てないところまできているんですね。知らない間に、時代はどんどん変わり、動いていきます。ちょっと前にグーグルカーが自動運転時に衝突事故を起こしたというニュースがありましたが、きっとすぐに修正され同じミスを起こさないようにプログラミングされていくのでしょう。失敗は財産ととらえて学習していく能力も、きっと人工知能はなんの弊害もなくどんどん取り入れていくのだと思います。

 

では、人工知能に勝てるものはこの先無くなってしまうのでしょうか・・・。いや、僕はそうではないと思っています。勝てるというか、相対するものとして存在するのが人間が作り出したアートの世界だと思います。何故かというとアートの世界は予測不可能なものがたくさんあるからです。中には、作者すらも意味不明なものがアートの世界には存在するし、そういったものに何故か人は心惹かれたりします。そして、アートって必ずないと生きていけないものではないですよね。効率とか機能のみで考えればどんどん排除されていってしまう世界なんです。ただ、そういった存在だからこそ、人工知能からしてみたら未知の領域だと思うんです。要するに入ってこれない世界。

 

なにも、絵とか立体のアート作品だけではなく、世の中にはアートの要素が入っているもの、たくさんあります。たとえば建築。以前テレビで有名な建築家の方が、ある部屋の何故か変に空いた空間を説明していた時に、「ここが空いていることにあまり深い意味はない、ただそこに空間を作りたかっただけ。」という話をしていたことがあります。確かにその空間、効率だけで考えれば確かに必要ないのですが、日の光の入り方とか、空間のぬけ具合とか、あるのとないのとでは全然違うんですよ。そう、深い意味はないんですが、そこに存在している意味は確かにある。それがアートの世界。

 

突拍子もないものを作ると、「アートだね〜。」ってよく言われますよね。人工知能、そんな突拍子もないもの作らないと思うんです。もし、人工知能に作らせるとしたらきっとドラッグ的なウィルスを入れないと無理そうですよね。ただ、高度な人工知能にそんなことをしたら、アートどころか世界の終わりというか・・・あまり想像したくはないです。

 

そんなことを考えながら、アート的発想や要素、人間だから創造できる感覚をもっと大事に、また制作に戻ろうと思います。読んでいただき有り難うございました。

 

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質問に答えるだけなら人工知能で十分。だから問いを作る側であり、形あるものを作りたい。

娘が唐突に

「ねぇ、今から30年後の世界ってどんな感じになっているのかな〜?」

と聞いてきたので、僕は、速攻でこう答えた。

 

「悪いが全くもって検討がつかん・・・。正直、5年後すらもわからない。ただ、変わっていく時間だけはどんどん早くなっているのは肌で感じる。きっと凄いことになってると思うよ。」と。

 

それから、自分が今まで生きてきた中で時代が変わるタイミングだったもの、出来事について話し合った。まずは、私の世代だとファミリーコンピューターファミコン)の到来。これは大きかった。ファミコンが出来る前までは、ゲームはゲームセンターでしか出来なかった。それが家庭のテレビで出来るようになったのは、やはり革新的であり、いまある家庭用ゲームはファミコンのバージョンアップに思える。そして次が、携帯電話。まだ学生の頃って、ポケベルでしたからね。僕は持ってませんでしたが。そして、Macの登場でパソコン、インターネットときて、スマートフォンに繋がっていく感じです。ファミコンから携帯電話がでるまでの期間って結構長いんですよね。その間、新しいものはもちろん生まれ便利になっているものもあるのですが、ベースは変わらない期間のような気がします。それが、インターネットが登場してからというもの、とても早い期間で変わりはじめた。この中でも、スマートフォンは本当に凄い・・・。これ、世界変わりましたもん。ただ、今の子供達にとってみればもう当たり前の世界なんですよね。もうこの時点でこの先の未来、検討がつきません・・・。

 

ただ、自分の時代で革新的に変わったものはほとんどがデジタルな世界のものが多い。やはりデジタル革命の時代を生きているんだな、と実感します。

 

僕は、この先の未来は検討もつかないと話しましたが、ただこの分野は進んでいくだろうと娘に話した事があります。それが、人工知能です。iphoneに備わっているSiriも既に結構なところまできてますよね。あれ、もうただの検索機能じゃないですもん。きっと凄い量の情報が詰まっているんでしょうね、僕は素人なのでただ凄いなって本当に思います。そして僕は娘にこう話しました。

 

「この先の未来、もしかしたらパパの癖や、声、性格や統計などをプログラミングすれば、パパがいなくても人工知能で話せるような世界ができるかもね。ただそれが、いいのか悪いのかはわからないけど・・・。」

 

そうなんです、この人工知能、何かのストップがかからなければ、どんどん進んでいくのは間違いないんです。たとえば僕の簡単なクローン的なものなんて、きっとデジタルの世界であれば実現可能な所まですぐにくるんでしょうね。ただ、知能を作るって、専門家の人達が言っているように結構怖いと思います。怖いと思うのはなぜか、それは想像がつかないからです。人間はこの知能を使っていままで生き延びてきた訳ですから、その知能を作り、デジタルに授けた時の結果が想像を超えるかもしれないという恐怖感。人工知能とインターネットの組み合わせ、まさしくターミネーターの世界・・・。こ・・・怖い・・・。ここまでいく前に是非ストップかかって欲しいです・・・。

 

ですが、ただ簡単な質問に対して答えをだすくらいなら、この先ストップがかからずとも進化はどんどん進んでいくんだと思います。仕事にしたって、いまのスタイルが変わっていくのはもう時間の問題なのかもしれません。あまり考えずに答えがだせる仕事、結構多いですから。そして人工知能が今ある世界の問いに対して、全て答えられるようになった時、きっと人工知能は完成します。

 

なので、自分は問いを持ち続けたいと思っているんです。どんな小さな事でもいい。問いを持つということを忘れないでいたい。そして、形あるものを作っていきたいのです。僕は毎日、かなりの時間をデジタル的な部分で過ごしています。デジタルは自分の世界を広くしてくれます。とても素晴らしい世界です。ただ僕は、鉛筆や絵の具を使って絵を描き、自分が日頃思っている問いを、形あるもので表現してくということも同時に進めていきたいのです。偶然性をコントロールする思考、人間が持っている感情、触感、感じる自然、そういったものを大事にしていきたい。デジタルクローン君には負けたくないですもん。(もちろんまだいませんが・・・)

 

ということで、Siriに話かけて、「すみません、聞こえませんでした」と返答され、だろうな・・・と、ホッと心を落ち着かせながらまた制作に戻ることにします。読んで頂きありがとうございました。

 

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目で見えているものを過信しすぎてはいけない。ですがなかなか難しいですよね ・・・。

目で見えているものって、簡単に言えばその動物が生きていくうえで的確な状態で見えているんですよね。たまに、ナショナルジオグラフィックなどで他の動物から見える視界を表した映像が流れたりしますが、人間からみたらとんでもなく凄い世界です。動物の違いだけでも随分と見えている世界が違う、では今自分達が見えているものって一体何なのだろう・・・ってなってくる訳です。

 

きっと自分達には見えてこない世界ってたくさんあると思うんです。もし、鷹が絵を描いたらどんな絵になるんだろう・・・とか、クラゲが水中で舞う世界ってどんな気持ちなんだろう・・・とか、ふと考えてしまうんですよね。見えている世界が違う、でも同じ地球に住んでいる。世界って不思議です。

 

色だって、この世の中に同じ色ってなかなか存在しないはずなんです。光のあたり方や位置が変われば同じものでも微妙に違う。なので、まったく同じ色を作るのは、相当計算されたものでなければ成り立たない。アートで言えば、印象派の時代がこの光や色彩の違いを表現しているのは有名ですよね。光からくる色彩の変化を表す為に、たくさんの色を使い、表現していく。印象派の絵は色彩が本当に綺麗です。

 

僕は、サーフィンをやるのですが(最近かなりブランクが・・・)、外から見る海と、入って流れを感じた時の海は全然違います。入ると見た目よりも海の動きを感じるんです。波の動き。そしてその波を作り出す風の動き。自然の繋がりの強さと、流れを感じます。

 

そんな事を言っていますが、僕、普段は相当目につられてます。正直、つられっぱなしだし、目で判断しまくりです。でも、それがわかっているから、目で見えているものに疑問をもつのかな・・・とも思います。

 

僕が表現していきたいのは、目に見えない流れや、繋がりです。繋がりと言っても、もの同士を線でつないだだけでは、また目につられた表現や作品になってしまう。そこをどう作品として表現していくかが自分にとってのテーマです。

 

印象派の作品を見ていると、ただ色彩が綺麗というだけではなく、自分が普段見えてこない世界を見せてくれているようで、目に疑問をもつということを思い出せてくれます。目に頼りすぎているな・・・と思う時は印象派の絵、おすすめです。

 

ということで、一回、別の動物になれたら、それもそれで面白そうだなと思いながら、制作に戻ることにします。読んでいただき有り難うございました。

 

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ミニマル?節約?その前に根本的な考えから入ったほうがいいのでは・・・。

最近ミニマルという言葉をよく聞きます。

先日書店に行った際、そういったミニマルなスタイル本でいっぱいになっていたのを見て、ちょっと驚きました。不要なものをそぎ落とし、必要最小限のもので生活するスタイル。なかなか自分には出来ないスタイルです・・・。

 

アートの世界でもミニマル・アートというものがあります。簡単に言うと、不要なもの、色などを排除し、必要最小限なもので表現していくアート。有名なアーティストだと、ドナルド・ジャッドなどにあたります。

 

ドナルド・ジャッドの作品は立体作品が有名で、箱形の立体が壁に複数綺麗に並んだ状態で取り付けてあるだけの作品だったりします。色彩もいたってシンプル。不要なものをここぞとばかりに排除しています。そしてこのドナルド・ジャッドの作品、めっちゃかっこいいんですよ!

 

どこの美術館だったかはちょっと忘れましたが(確かMoMAだったような・・・)、いろいろなアーティストの作品の中に、このドナルド・ジャッドの作品があったりすると、すっごく目立つんです。色彩などをたくさん使った作品よりも、とても迫力のある作品に見えてくるんですね。またこれが、1960年代というのだから驚きなんです。ほんと早いですね・・・アートって。なので、僕の印象ではミニマルって、シンプルで、スタイリッシュで、ちょっと憧れる生活なんです。

 

それが、最近ミニマルという言葉についてちょっと???な感じを受けます。それがミニマル=節約という考えです。これどうなのかな・・・とちょっと思います。ミニマルな生活を目指した結果、それが自然と節約に繋がっていたというのなら、まだわかるのですが、節約するためにミニマルな生活にするというのは、ちょっと違う気がします。ドナルド・ジャッドも、別に絵の具代をケチるためにミニマルな表現をしていたのではないですよね。本当に必要なものを求め、追求していった結果、辿り着いた表現でありアートな訳です。

 

テレビの番組とかだと、それってミニマルなスタイルというより、ただ節約しているだけなのでは?と思うもの結構あります。それって、やはりちょっと寂しいです。僕はあまりその生活には憧れないです。せっかくミニマルという言葉が出てきたのなら、その根本的な考えから入ったほうが絶対良いと思うんです。じゃないと、たぶん続かない。

 

せっかく流行るのであれば、ミニマルという洗練された考えやデザイン、アートがうまく伝わって欲しい。スティーブ・ジョブズが作ったiphoneのように。

 

 そしてドナルド・ジャッドの作品もかっこいいですよ。ミニマル・アートおすすめです。

 

ということで、雑多なものがたくさん置いてあるものを一度整理しないとな・・・と思いながら、制作に入ります。

 

 

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変わらないもの。そして時代の流れについて。

参観日などで学校に行くと、いつも思う。

自分が子供だった頃から、あんまり変わってないな・・・と。

いろいろと事情があって仕組みなど、なかなか変えられないのも、わかります・・・が、もうかれこれ何十年も経っているんだからもう少し変わってても良いんじゃないかな〜と。

今って、かなりのスピード性が求められていると思うんです。何か調べるのも、スマホであっという間。今後、決断力の早さというか、瞬発力というか、そういうのがもっと求められる時代になるはずなんです。

アメリカの飛び級制度とかみると、ほんとにかなわないなって気がしてきます。

当時と変わらない学校を見ていると懐かしいな〜とか、そんな感情など到底なく、不安で、恐ろしいなという気持ちでお腹いっぱいになります・・・。

で、何が言いたいのかというと、僕は日本の学校教育の否定とかを言いたい訳ではなく、変わらないのって怖いな・・・ってことなんです。

世界は凄い勢いで変わっていきます。

怖いのは世界が変わっていってることに気がつかないで過ごしていること。

ですが、時代が変わっていることを知っていて、敢えてスタンスを変えないというのは時としてありになるんですよね。それが伝統になったりして残っていく訳です。ですが、伝統として残るのってやはり、根本がしっかりしている。そしてすべてのものを伝統として残すことは出来ないんですよね、この世の中。いらないものはどんどんと消えていきます。伝統は少しで十分な訳です。

なので、伝統として残す方向で突き進んでいくのか、それとも新しいものを確立していくのか、世界の流れを知った上で決めていかない限り、すべてが中途半端に終わる訳です。

ファッション業界もいま凄いですよね、どんどんとブランドが消えていく・・・。ちょっと寂しい気持ちになります。ですが、残っているブランドも実際にはある。そしてそのブランドが果たして伝統だけで残っているかというと、そう簡単なものではないと僕は思います。時代の流れを読み、ブランドイメージを保ちながら様々な形で変容して残っていく。

僕、ファッションの移り変わりって好きなんです。基本は身に纏うもの。流行という流れにのり、凄い勢いで進んでいく。ですが、巡り巡ってまた昔の流行が戻ってくるタイミングがあるんですよね。そして、その戻ってきたものはそのままの形ではなく、時代に合わせた形で変わって戻ってくる。なんか時代の流れの縮図を見ているようで、楽しいんです。

では、僕はどうありたいか?変わらないでいる不安は嫌いですが、いざ変えるのもなかなか度胸がいる。まるで日本の学校教育のように中途半端です。なので当時と変わらないでいる学校に行くと僕は不安な気持ちになるのでしょう。なんとかファッションの流れのように、様々な変容を見せながらベースは変えずに進んでいきたい。なかなか難しいですが、そうしたいのです。

そこには、伝統派で描いている父の影がチラチラ見えてきますが、その話はまたの機会で。

また新たな作品が出来るよう、制作に戻ることにします。

読んで頂き、ありがとうございました。

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