Autogenesis diary

日々思う事やイラスト制作日記。

不思議な夢の話

昨日は不思議な夢をみた。

たまにサーフィンの夢を見るのだけど、

昨日の夢はちょっといつもより

不思議なサーフィンの夢だった。

 

最近、サーフィンどころか海にも行ってないからか、夢の中でも久しぶりに海に来たという感じで、どうやら1番サーフィンをしていた高校のとき位の設定らしく、景色は千葉のようなイメージだった。

 

サーフポイントに着くと、地元の先輩サーファーの人達が「今日はあまり波が良くないから、違うポイントに行こう。とっておきのシークレットポイントがあるからついて来い!」

というので、少し不安になりながら僕はついていった。

 

サーフィンをやったことのある人ならわかると思いますが、シークレットポイントには、その場所独自のルールがあったりするので、知らぬ間にか自分がルール違反をしてしまっているのではないかと、はじめての場所は結構不安になるのです。

 

そして歩いて別のポイントに向かっていくと、さっきまで晴れていた天候が何故か急に雲行きが怪しくなり、晴れているのか曇っているのかよくわからない天気になってきた。

 

先輩達の後をついて行くと海が一度見えなくなり、途中には林があった。少し暗い雰囲気の林をさらに奥に進んで行くとそこには鳥居がひっそりと寂しく建っていた。

 

「これはどうみてもシークレットポイントだよ。だって地元の人がいないと、怖くてはいれないもん・・・」と思いながら、ぼくは林の奥へと進んで行った。

 

地元のサーファーの人達が、

「良し、あの最後の林を抜けたところが、シークレットポイント。ここなら絶対いい波あるから!」というので、最後の林を抜けて、先輩に着いて行った。

 

先に林を抜けた地元の先輩達から、

「おー!最高な波じゃん!やっぱりここのポイントはハズレなし!」という声が聞こえてくる。

 

僕は不安になりながらも先へ進んで行った。

 

林を抜けて行くと、かなり高い丘のようところから海を見下ろすような場所に着いた。天気は、まるで台風の後に太陽の光が垣間みえているような感じで、海の沖のほうだけ神々しい光をこちらに向けて放っていた。

 

波はというと、良いのか悪いのか、よくわからないコンディションだった。波の高さは腰くらい。うねりの形までは良いのだけど、波がわれそうで、われない。先にかなりのサーファーが沖に向かってパドルしているのは見えるけど、波に乗れているサーファーは誰一人もいなかった。何故、これが良い波なのか、僕には正直全くわからなかった。でも、ひとつだけ、判断がつく事は、沖に向かって行くカレント(流れ)が、強烈に強いことだ。

 

「これ、海に入ったらやばいやつなのでは・・・」と感じ、僕は先輩達に、

「ここのルールがわからないので、やっぱり海に入るのやめておきます・・・。」と、言いうと、先輩達は、ここにはルールが無いと、口を揃えて言った。ルールどころか、ここは、皆んなが海に入るだけで楽しくなる場所なのだと。

 

どうしようも無いので、海に入り、足を2、3歩進めたところで僕はこれ以上先に進んだら、マズイ・・・と感じた。それは想像していた以上に沖に向かう流れが強すぎるからだった。

 

陸に戻ろうと、振り返ったところで波に足をすくわれたところで僕は夢から覚めた。

 

丘からみた神々しい海の光が印象的だったのと、怖い夢なのか、楽しい夢なのか、良いのか悪いのかの判断が難しい夢でした。

 

それでは、皆様、良い夜を。

 

 

広告の事を考える。そして、ポカリを飲む。

高校の通学時、電車の窓に貼ってあった広告。

青ベタに白抜き文字のロゴ。

「ネーチャーの国」。

かれこれファンになって20年以上。

どうやらデザインの仕事をするずっと以前から、僕はポカリの広告が好きだったらしい。

 

真夏に屋根を白く塗った後に、麦わら帽子を被って2人ポカリを飲む。

サーフィンの後にポカリを飲む。

道路に転がった缶を追いかけて、またポカリを飲む。

これが青春なのか〜と思った学生時代。

勿論、そんな絵に描いたような青春は僕にはなかった。サーフィンの後にポカリは飲んだけど、割と先輩が多く、友達とサーフィンという経験は殆どなかった。当時、父親と海に行っていたので青春って感じではない訳なのです。

 

そしてあっという間に学生時代が終わる。

時が経つ。

 

今度は、いきなり高校生が走り出したかと思えば、ポカリを飲んで空高く飛んでいく。

物凄い勢いでダンスをする学生達。

ソーシャルディスタンスでも青春を謳歌する学生の姿。

凄まじい広告の発想と勢い、迫力、メッセージ。流石ポカリ、カッコいい・・・と思う反面、明らかに自分が学生の時に見ていた感覚とは違う視点から広告を見ていることに気がつく。大人になったんだよなきっと・・・と自分を納得させる。

 

そして、今回の高校生が勢いよく廊下を走り抜けていくCM。上下に湾曲する廊下は、困難な道を乗り越え、新たな道へと向かうショートストーリー。舞台セットもさることながら、この時代へのメッセージ性も本当に凄い。

 

公開当日の僕のTwitterのタイムラインは、朝からポカリのCMで盛り上がっていて、電車の中で1人何回も見てしまった。

 

いや〜ポカリやっぱ凄いな〜、青春っていいな〜、こういう広告っていいよな〜って思っていた。でも、僕の心に刺さるというのはどういうことなんだろう・・・と、ふと疑問に思った。いまの学生達は、もっと想像以上に複雑な環境の中で過ごしているのではないか・・・。コロナ禍の中、青春を謳歌出来ていない学生のほうが大半だろうし、学生時代から早20年以上が経過している僕には正直、想像がつかない。メッセージも心に余裕がないと、受け取るものも受け取れない。

 

どうやら自分も娘と息子がいる大人というものになったらしい。高校生の時のようにポカリの広告が見える電車の席に敢えて座ったりもしない。

 

そしてどうやら、娘、息子にはこの広告のメッセージが届いていなかったようだ。

 

自分がいる環境というのもあるけど、今のところ話があうのは、広告、デザイン業界のひとばかり。実家に帰ったときも、話が全く通じなかった。

 

そんなことを、考えているうちに深夜になりました。

僕のネーチャーの国はどこにあるのだろうとポカリを飲みながら日々思う、今日この頃です。

 

皆様お休みなさい。

良い夜を。

 

 

 

 

下町なんていう言葉もいずれはなくなるような気がする。

僕は幼い頃、下町で育った。場所は亀有。たこ焼きやもんじゃが当時100円で食べることができた。いまだにたこ焼きは100円で食べられるお店が場所は変わったけれど残っている。

家族でよく行った焼肉屋は風俗通りと言われる道のど真ん中にあった。「3000円ポッキリ!!」というピンク色の看板がいつも目に入ってきたが、何が3000円なのか幼かった僕には全くわからず、ただただ怪しさだけを醸し出していた。

なんでこんな怪しい道を通るのか聞いたことがあったが、「夜の旨い店はこういう所にある。」とだけ言われたのがやけに印象的だったのを覚えている。

少し駅から離れるとおでん屋があり、串に刺して歩きながら食べることができた。そして僕は、この店のちくわぶが大好きだった。

当時亀有には亀有名画座という映画館があり、いつもはポルノ映画を上映しているのだが夏休みになると子供祭りと称しドラエモンの映画などを上映していた。「欲情の団地妻3」のポスターの上からドラエモンのポスターが貼ってあるのはある意味カオスだ。そして、目つきが悪いという訳のわからない理由で上級生にいきなり顔面を、殴られたのもこの亀有名画座だった。今では、アリオという大きなショッピングモールがあり、大きな映画館ができている。あそこで殴られることは、まずないだろう。

亀有もだいぶ変わった。変わり過ぎて、あまり当時の駅前を思い出せない。何故こんなことを書いたかというと、近々また実家に帰るため亀有に行くからだ。

決してノスタルジーに浸っている訳ではないが、綺麗になればなるほど何故か薄っぺらいものに見えしまうのは、僕だけだろうか・・・。

鉛筆と紙があればなんとかなる。

この1000円をあなたに渡すので、増やしてきて下さいと頼んだらあなたはどうしますか?

 

というテーマを、ある本で読んだことがある。

 

ギャンブル的なことをする人もいれば、

そもそも1000円を全く使わずに増やす方法を考えたりする人もいる。

 

靴を磨いて増やす人、自転車の空気を代わりに入れてあげて増やす人。

 

このお題の中ではギャンブル的なものはリスクも高く、確実性がないので評価的にはあまり高くなかったような記憶がある。

 

やはり評価が高いのは、全く使わずに増やす方法を考える人、又は極力使わずに増やす方法を考える人なんですよね。

 

僕はというと、基本的に鉛筆と紙があればなんとかなるだろうと思っている。

 

美術の予備校時代、僕は人物の顔を描くのがとても苦手だった。

自分の顔を鏡で見ながら描くのが嫌いだった僕は、練習量の少なさから一向に上達しなかった。

 

ある時、先輩に相談したら

「だったら、外で描けばいい。だって人は沢山いるじゃないか。」

という、唐突な言葉が帰ってきたので、ひょんな事から僕は先輩と一緒に路上で似顔絵を描く事になった。

 

勿論、スケッチの練習なので、料金は無料。あまり待たせてはいけないので、時間は長くても5分程度(ちょうどその時期は真冬だった)。描いたものは、プレゼントととして相手に渡すという仕組みだった。

 

はじめは、全く人がこなかった。

でも、1人が興味を持って来てくれると後はそこから、沢山の人達が興味を持ってくれて、次第に列を作り始めるようになった。

 

スケッチはだいぶ上達した。何せ、相手に話しかけながら描いたり、次に待っていたりする人もいるので、スピーディーに仕上げなければならない。

 

しかも、無料とはいえ駄作は人にあげたくない。

 

なので、一生懸命に描いた。

 

そうしていると、無料にしていても、

「本当に嬉しい。良い記念になった。」

と、お礼にお菓子を持って来てくれる人、暖かい飲み物を買ってきてくれる人に沢山巡り会うことが出来た。

 

考えてみると、自分の絵が、他の何かに変わるのはこの時の経験がはじめてだったと思う。人の暖かさも感じることができた。

 

なので、僕は紙と鉛筆があればなんとかなると思っているし、最高のコミュニーケーションツールだと今でも感じている。

 

ただ少しだけ補足して置くと、路上には陣地があったりルールがあったりするのですね・・・。

怖い経験もあったり・・・なかったり・・・というところで、人の暖かさもあれば冷たさもあるというところでしょうか・・・。

 

 

 

塀の中の不思議な場所

「凄い楽しい場所を見つけたから、

お前も来いよ!!」

 

友達がそう言うので、僕はついて行った。小学3年生位の頃だ。

 

いつもの住宅街を抜けていくと塀がありそこには一箇所、人が入れるくらいの穴が空いていた。こんな所に塀などあっただろうか・・・。

 

不思議に思いながらも、友達はその穴を潜り抜けていったので、、僕もその穴を抜けて中に入っていった。

 

中に入ると、そこには広場が広がっていた。

 

ボールを蹴って遊ぶ子供達。縄跳びや、

鬼ごっこをして遊ぶ子供達。

子供の定番の遊び方だ。大人は一人もいなかった。

 

とても不思議だったのが、その子供達が何の迷いもなく、心から楽しく遊んでいるのが自分にも伝わってくるような、そんな場所だった。

 

僕たちは、その広場で走り回り、心置き無く遊び回った。今でも覚えているくらいなのでよほど楽しかったのだろう。

 

数日後、またその場所で遊ぼうと思い

一人で行こうとすると、途中の道までは

覚えているのだけど、何故か塀のところ

までたどり着くことができなかった。

 

そもそも、誰と来たのかさえ、思い出すことが出来ない。

 

「夢だったのだろうか・・・。」

 

それにしては、やけにリアル過ぎるし、

お昼に母が作ってくれたご飯を食べ、

友達が遊びに呼び鈴を鳴らすところまでは鮮明に覚えているのに・・・。

 

その後、何度かチャレンジするも、結局その場所にたどり着くことは出来なかった。

 

みんな楽しそうにしていたあの場所はいったいなんだったのだろうか。

 

考えた結果、僕はその場所に『楽園』という名前をつけ、探すのをやめた。

 

そういう場所があっても、たまにはいい。そう思った。

 

 

 

 

大事なものを捨てても、気がつくのに3年かかるときもある。

娘の勉強に付き添っていると、どうしても自分の中学の時を思い出す。

 

中学1年。小学6年の時に悪さをして母親を泣かせてしまった僕は、どうにかして挽回しようと勉強に力を入れていた。

 

中学1年の頃には、志望校も決め、自ら進学塾を希望し、家に帰ったら勉強という流れを作っていた。

 

志望校といっても、動機はたいしたことなく、大学の進学率と私服だったという位のもので、何かを学びたいとか、そういった目標など全くなかった。

 

あんなに毎日練習していたスケートボードも一切やらなくなり、友達も変わっていった。

 

全く遊んでいなかったわけではないけれど、遊び方が変わっていった。

 

正直に言うと、あまり楽しい思い出がない3年間だった。

 

進学塾はランク分けされていて、入ったときは一番下のクラスだった。

 

父親とも、その時にどんな流れかは忘れてしまったが、口論になり、たまたま振り払った腕が父親の顔にあたり、ケンカになった。

 

悔しかった僕は、猛勉強をして一番上のクラスにまで上がっていった。

 

ただ、何かが物足りないとずっと思っていた3年間だった気がする。

 

志望校も結果、第一希望は落ち、第三希望の高校に行くことになった。後半学力が低下したからだ。志望校もたいした理由があった訳ではないので受からないのも当然のような気がする。

 

受験も終わり外を歩いていると、スケートボードをしていた頃の友達とすれ違った。

 

その友達はまだスケートボードを続けていたようで、凄い勢いで走り抜け、技を決めていった。

 

自分はこの3年間、何をやってきたのだろうか・・・。ふとそう思えてきた。

親に認めて貰おうと、大事なものを捨てたのは誰のせいでもなく自分しかいない。

 

そう感じた僕は、高校からスケートボードとサーフィンを始めるようになった。何かを取り戻したかったからだ。

 

娘を見ていると、圧倒的に勉強をしている時間が短い。ただ、学校生活は楽しんでいるように見える。

 

親なので、勉強をするようにと言いますが頭の片隅では、勉強よりも大事なものはなくさないで欲しいと願っています。

 

江ノ島、最高です。

はじめて湘南の海に入ったのは高校3年の時だった。

 

僕が中学に入る頃、父はどんな理由だったのか定かではないがいきなりサーフィンを始めた。スケートボードを小学生の頃からやっていた僕はサーフィンも余裕で乗れるだろうと思い、ある日軽い気持ちで父と一緒にサーフィンをしに千葉の海へ向かった。

 

生まれてはじめてのサーフィンは自分が思っていたようには勿論上手くはいかず、正直ボードに立つのが精一杯・・・。みんなかっこよくパドリングしてアウトサイドに向かっているのに対し、自分はインサイドの小波でさえあたふたする始末。こんな筈ではなかったのに・・・と心の声が聞こえてくる。

 

その後、週末に必ずといっていいほど海に向かい始めたのは、波にはじめて押された時の速さが忘れられなかったからだ。あの時、思わず「うわっ!はやっ!」と声が出たのを覚えている。考えてみれば自然の力を肌で感じ、一体化するようなあの感覚はあれがはじめてだったのかもしれない。

 

それからというもの、少しでも上達しようと真冬にも海に行って練習をした。千葉の海の水は本当に冷たく、車の中で着替える時、体の震えで車がガタガタと揺れていたのはなかなか面白い経験だった。

 

それから3年後、決して上手くはないけれどなんとか波に乗れるようになった。危うく大怪我という経験もあったけど辞めずに3年やっていれば少しは乗れるようになるもんですね。

 

そしてある台風の翌日。いつも入っている海が完全にクローズの日があった。とてもじゃないけどサーフィンが出来る状態ではない。いつもなら千葉の某ポイントに行ってみたりするのですがこの時は何故か湘南に行ってみようということになった。

 

湘南・・・!その響きは千葉の海以外に入ったことのない僕にとって正直ドキドキ意外なかった。それは江ノ島を見ながらサーフィンしてみたいという憧れがあったからだ。

 

そしていざ海ほたるを抜け、逗子のほうから湘南に入っていくとそこには物凄い大きさで形の良い素晴らしい波が立っていた。僕のレベルではとてもじゃないけど乗りこなせない大きな波。そしてそこに向かっていく熟練したサーファー。本当に圧倒された景色だった。

 

そして父も僕も颯爽と海へ・・・ではなく、とてもじゃないがこれは無理だと判断・・・。なんとか入れそうなところはないかと探していたところ江ノ島のすぐ隣にうちら親子でもなんとか入れそうな波が立っているのを発見。それでも結構波は大きく真剣になって波に乗っていたのを覚えています。

 

そしてパドリングしながら見る江ノ島はとても綺麗で、とても最高な時間を僕に与えてくれました。

 

そして時は経ち、先日家族で湘南に行くと江ノ島が綺麗な空の下、存在感のある姿を見せてくれた。

 

そして今回、あの時波待ちをしながら心で叫んでいた

 

「ここが七里ヶ浜かー!」

 

と思っていた場所はどうやら七里ヶ浜ではないことが判明・・・( ̄O ̄;)。

 

なんともはや・・・。地元でないとこうなります・・・。でもいいです。とてもいい時間を過ごせたので。

 

それにしても江ノ島って存在感ある綺麗な島だなと本当に思う。

 

高校3年の時に見たあの景色と思いが蘇ってきたように感じました。

 

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